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日々感じたことや自分の考えを綴ります。

中高生必見〜主体的に学ぶ事の重要性〜

初めに〜

今回、中高の自分について当時の私の見解と、大学生活を1年経験した自分の見解の2つに分けて考えていく。現在中高生の方、また中高のお子様をお持ちになっている方には特に読んで頂きたい。私の価値観を押し付けようとしているのではなく、皆さんの価値観と私の価値観を踏まえて物事を考えてみてほしいというのと、他者の物事を客観的に第三者の視点から考えることで、普段自分の物事を一人称視点から考えている皆さんに新しい考えをもたらし得る可能性があるというのが私の狙いである。

 

 

赫々たる中学時代

 自分で言うのもなんであるが、当時、周りに比べ自分は傑出した存在であった。皆から一目置かれ尊敬される程だった。学習面においては常にトップ層、小学1年から続けているサッカーでも試合では中学1年の頃からレギュラー。中2では県の優秀選手に選ばれるなど上手くいき過ぎた生活を送っていた。それ故、高嶺の花になっていたのかもしれない。当時の自分は、少なからず自分の事を天才だと思っていた。何事も卒なく熟せるから多少サボったところで周りは自分を越せない、そんな具合に思っていたのかもしれない。そこで、このような順風満帆な生活を送っていた当時の私が、当時の私生活に対してどのような見解を抱いていたかを書き出そうとした。しかし、ペンが進まない。これだけ生活が充実しているのであれば、自分なりのプランや考えがあるはずである。この時初めて、当時の自分が如何に愚かであったか痛感したのだ。当時の私に”考える”といった言葉は似合わない。つまり、主体的、能動的に取り組んで得た成功ではなく、受動的に取り組んで得たものなのだ。私は教育熱心な家庭に生まれた為、小さい頃から英才教育を受けていた。両親が敷いたレールに乗っかり、与えられた課題を訳も分からず嫌々こなした。勉強を例にとる。中学レベルの内容であれば暗記で通用する為、受身的に学習しようが能動的に学習しようが、勉強方法を間違えない限りそれなりの結果を出すことができる。その為、毎度親の敷いたレールに乗っかり結果ばかりを追い求めていた。両親の教育を全否定する訳ではないが、現在の自分の見解としては私が教育する側の立場に立ったら両親と同じ教育方針は取らないだろう。より主体的に学べる様な環境を作るのが先決なのではないだろうか。主体的に学ぶことの重要性については後ほど記述する。

 

 

初めての挫折、苦しむ浪人期

 第一志望校に合格した。自分はそれまでの人間だった。文武両道を掲げる県内トップクラスの進学校であったが、勉強を捨て部活に明け暮れる毎日を送った。勉強する時間はあるが、何故かする気になれない。高校が実家から離れている事もあり、両親に口出しされる機会も必然的に少なくなった。当時の自分には勉強しない環境が整い過ぎていたのだ。更には、自分の取柄だと思っていたサッカーでも怪我や技術の乏しさが原因でレギュラーを外された。これだけ痛い目に遭っても自分の考えを改める事なく、過去の栄光にすがるばかりか根拠のない自信を持ち続けていた。そして大学受験。第一志望の大学のみに出願したが無論のこと不合格。努力もままならないのに落ち込む自分。浪人するも、自分の愚かさを痛感し、病み、泣き続けた1年。勉強は手に付かなかったが、この1年で勉強以上に価値ある物に出会えた気がした。

 

自分の非を認める日

 第一志望には合格しなかったものの県外の某大学に合格。私は天才では無かった、秀才だったんだ。つまり努力を怠れば凡人になるのである。当時、自分が凡人である事に気がついていれば親元を離れても努力を怠らず、より明るい高校生活を送る事が出来たのかもしれない。だがしかし私は挫折をして良かったと思っている。ここで挫折をしていなかったら将来、自分の人生を潰す事になっていたのかもしれない。私は受動的に学ぶ人間だった。それ故、自ら新しい事に気がつくということは皆無と言ってもいいだろう。もう一度言う、挫折して本当に良かった。しかし、だからと言って皆さんに挫折を味わってもらいたい訳ではない。挫折を経験し、考えを改めた自分の体験談を読んで主体的に学ぶことの大切さを知ってほしいのだ。

 

 

主体的に学ぶことの大切さ

主体的に学べる人間は言うまでもなく情報量が多い。だからこそ自分の知識の乏しさを痛感すると共に興味深いテーマに出会う可能性も高く、より学びたいと考えるだろう。はたまた、得た情報から新たに自分の考えを生み出す事もできるかもしれない。その新たに生まれた考えが、並外れている人々の事を天才であると私は考える。但し、「主体的に学ぶ→天才」ではなく、「天才→主体的に学ぶ」である。つまり3つに大別する事ができる。

 

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天才でなくとも主体的に学ぶ事のできる人間であるならば考え方自体は同じである為、天才のアイデアを尊重する事ができるだろう。しかし、受動的な教育を受けてきた人間からすれば天才の考えるアイデアなど邪魔だと感じるのではないだろうか。受動的に学んだ内容に無いものが提示されているのだから。天才のアイデアを排除しようとする。上の図を見ていただければ分かる通り天才に比べ、受動的に学んでいる人間は多数存在する。それ故、天才は数に弱い事が分かるだろう。未来の社会を担う私達に今できる事は主体的に学ぶ人間になる事、また受動的に学ぶ人間を主体的に学ぶ人間に更生させる架け橋となる人間になる事だ。だから私は1人でも多くの人を更生させるために必死にこの文書を書いている。学校へ行き受動的に授業を聞いて家に帰る。テスト前になったら授業ノートを見返し必死に暗記する。そしてテストで良い点を取ったら先生に褒められる。先生と異質な考えを持つものは先生の考えを否定していると見なされ評価されない。こんな現状を少しずつ変えていきたい。